日本人が亡くしてきたモノ
2005-11-15T01:27:12+09:00
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昔は夢が沢山ありました・・。その夢って・・手のひらからこぼれ落ちる程の情報にゴマカサレテいませんか?
Excite Blog
ベタな幸せ?
http://timesgone.exblog.jp/2601799/
2005-11-15T01:27:58+09:00
2005-11-15T01:27:12+09:00
2005-11-15T01:26:20+09:00
times_gone
生きている環境
PC端末が無い環境にいた為、ブログの更新、チェックが出来ませんでした。
本日より、再開します。
で、本日は、“幸せ”とはどういうモノなのでしょうか?という事です。
「友人と酒を呑みながら、夢を語ること?」
「趣味や得意な事にハマッテイルこと?」
「仕事に夢中になり、週末の休みに感情的になること?」
・・・・・・・。
きっと、様々な幸せが、それぞれの人にあるのだろうと思う。
しかし、全てに共通するのではないかと思う事がある。
それは、“酔い痴れていること”なのではないだろうか?
酔い痴れている状態が幸せと感じる状態ではないだろうか?と思う。
およそ、偏りのある意見ではあるが、酔い痴れている状態を幸せと解釈することが出来ると、私は思う。
何をするにも、夢中になっている事が幸せだ。
その状態を、客観的に見ると、酔い痴れていると思えるのだ。
最近まで、私は酒を呑み、酒の酔いに合わせて、会話をし、行動している時間が多かった。
しかし、アル中では無い。
酒は人と人との潤滑油であると思っていたので、そのような行動をとっていたのだ。
よって、一人で飲むことはめっぽう少なく、仕事関係の人や、友人、親族、恋人との間には酒を置き、関係を確立しようと思い、そのように行動してきた。
だが、ちょっとした都合で酒を呑む事を医者から止められたのだ。
だから、何をするにもシラフで対応しなくてはいけなくなった。
会話も、夢を見るのも、遊びも、人間関係の構築も全てだ。
しかし、死ぬまでこの状態を保つ事を医者から命じられているわけではなく、一定期間の禁酒が必要である為、ここ何ヶ月かはシラフで生きている。
酔っ払っていた頃は、毎日が楽しかった。
平日は、夜酒を呑むことを目的に仕事に励み、訪れる週末を目標に一週間を行動していた。
仕事しているか、酔っ払っているかだったかも知れない。
酒の酔いに任せ、会話を楽しむ事が最も好きだった。
夢を語るのも、社会を論じるもの、会社を批判するのも全て、酒を交えるとイメージが湧き出てくる感じがして、それに身を任せていた。
だからといって、語った事が全て行動となっていた訳ではない。
これが弱点だった。
全てが行動に移っていたら、きっと今の私は大富豪を超越し、貴族となっていたかも知れない。
ほとんど全てを行動に出来ず、結果を示せなかった自分は、普通の社会人でしかない。
良かったのか、悪かったのかは分からないが、過去を振り返るのは好きではないので、今の状態が最もいいのだろうと思う。
幸せを感じる事は、人間の身体にとっても重要であると本にも書いてありました。
現在、私は酒の力に頼らず幸せを感じ生きています。
それは、健康であること。明日の予定が立てられること。プーマの靴を買えること。食事が美味しいこと。本を読んで感銘すること。歩けること・・・・・。
とっても普通のことだらけです。
しかし、この普通のことだらけに幸せを感じることが出来ます。
今までは、特別な何かを用意し、特別な力を借りて初めて、幸せを感じていたような気がします。
普通のことに対し、幸せを感じれなかったのです。
幸せ麻痺状態です。よっぽど毎日が異常だったのかもしれません。
子供の頃や、田舎に帰ったときなど普通に何もする事がない時間が流れています。
きっと、それが幸せなのかも知れません。
何をするのではなく、特別な準備もせず、ただ普通に生きていくことが、最も幸せなのかも知れません。
その普通に生きることに酔い痴れるようになる事が、今の社会に欠けているような気がしています。]]>
忘却の中にある学習
http://timesgone.exblog.jp/2510210/
2005-11-08T00:05:00+09:00
2005-11-06T22:15:46+09:00
2005-11-06T22:11:16+09:00
times_gone
過去からの提言
忘却が無いと、人間は生きていく事が辛過ぎる為、生きていくのに苦しむ事だろうと、森重久弥が昔、TVで言っていた。
確かに忘却が無いと、辛かった事や、悲しかった事、寂しかった事を鮮明に覚えているので、生きていくのは辛いだろう。
しかし、もうひとつ人間は忘れてはならないモノがあると思う。
それは、「学習」という言葉で表現する事が出来るのではなだろうか。
悲しみや、寂しさは忘れてる事が出来るのなら、忘れた方が良い。しかし、同じ悲しみや、寂しさを経験しないように、学習していく事も必要だと思うのだ。
辛さを回避する為に、辛さを経験しないようにするのだ。
その辛さの発症源には、忘れてはならないモノが存在する。
その忘れてはならないモノを忘れると、同じ辛さを経験してしまう。
悲しみや、寂しさ、苦しさも同様だと思う。
これまで、我々は忘却の中、学習もしながら生きてきた。
そして、現在の生活を手にしている。
しかし、忘却の度が過ぎているような気がしているのだ。
そう、大切な何かをも忘却してしまっているのだ。
それは何か?
家族の暖かさかもしれない、近所付き合いかもれない、ルールかもしれない、災いかもしれない。
何であるかは、一言では伝えきれない。
何かが起こる瞬間瞬間に忘れてはならない何かがあり、それを忘れることで大切な何かを亡くしていると思うのだ。
すごく、あいまいな表現で申し訳ないのだが、人其々に、それは其々存在するものだと思うからだ。ひと括りでは表現出来ない事なのだと思う。
私たちには、生きている限り、生きようと思う限り未来がある。未来には何が待っているかを予測する事は非常に困難でもある。だから、過去の出来事を通して、未来に対し少しでも予測し、準備しておく必要がある。それが学習というものだ。
学習亡くして、幸せな未来は無いとでも言えるのではないだろうか?]]>
分別の為の新たな基準作り
http://timesgone.exblog.jp/2504268/
2005-11-07T00:05:00+09:00
2005-11-07T09:49:46+09:00
2005-11-06T11:34:09+09:00
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生きている環境
BSE問題やキムチに虫が入っていたとか食品の安全が叫ばれている。
食品とは、我々が生きていくにあたり、絶対必需品であり、何を食するかにより、健康維持にも影響する。つまり、口にする物によっては死に至る事もあるほど、重要な事であるという事だ。
今は、子供が砂場で遊ぶ事に対しても、親は懸念を抱いているようある。
それは、砂場には猫や犬などの動物のばい菌や便が混ざっていたり、目に見えない細菌が混在している事が理由と聞いた事がある。
しかし、我々が子供の頃は、そんな事に対して社会の関心は低く、砂場の砂を噛む事も多かった。それで、病気になった事も無い。
きっと、現在より、昔の方が野良犬や野良猫が多かった時代である。
又、食品管理においても現在よりも、ずっとズサンだったと思う。
同時に、身体に少しぐらいばい菌が入った方が、免疫力が向上されるとも言われていた。
今は核家族化が進んでいる為に少なくなったが、当時の安全を確保する為に、我々を守ってくれていた存在は、おばぁちゃんとかおじいちゃんの知恵。つまり昔の人の知恵が我々の健康を維持してくれていた要素も多いのではないだろうか?
確かに、現在の医学や科学の進歩で、それら全てが正しかったとは言いがたいが、少なからずも祖母と祖父の話を分別する為のツールとして利用していた。
よって、子供の時に彼らの存在は絶対的であり、父母に於いても同様であったのではないだろうか?
昔のように古人からの話を聞く機会はひどく減少した。
それは、祖母や祖父に限ることではない。
年代を超えてのコミュニケーションを確保する空間が減少しているのだ。
古き企業は様々な年代の人間が存在しているが、しかし、年代間を超えての有効なコミュニケーションが行われているとは考えにくい。
皆さんはそうは思わないだろうか?
年代を超えて酒を飲みに行っているだろうか?
そもそも、尊敬に値するそのような年上の人の存在はあるのでしょうか?
といった事です。
ベンチャー企業が立ち上がり、企業の若返りが叫ばれている現在では、このよう事は普通ではなくなっている時代なのだ。
よって、モノゴトを分別する基準を生産者に強く求めるようになった。
食品なら今は、生産者の掲示が望まれており、その人がどのように生産したのかをも、求められている。
昔は責任が購入者にあったのだが、現在は生産者に移行したのだ。
これは、昔の人の方が物を分別する能力があったという事と、それほど情報が今ほど多くないので、供給される物に限りがあったし、流通も今ほど発展していなかったので、産地での需要と供給バランスが確立していた為、地元人は商品自体の目利きには長けていた事も理由として考えられるだろう。
古人の言っていた事は全てが正しいわけではないと思うが、それは分別する際の大きな基準として存在していた。今と昔の大きな差である。
私達が求め続けた生活の結果が、現在の事故や現象となっている。
新たな分別する為の基準作りが始まったばかりである。]]>
ストレスがエネルギーとなる時
http://timesgone.exblog.jp/2500307/
2005-11-06T00:05:00+09:00
2005-11-05T23:34:20+09:00
2005-11-05T23:29:39+09:00
times_gone
人間の欲求
カッコいい言葉である。惚れ惚れする。文字事態も素敵だし、意味も何かカッコよさそう!
で、goo辞典で調べると、
〔「さぶらい」の転。近世以降多用されるようになった〕
(1)帯刀し、武芸をもって主君に仕えた者。武士。さぶらい。
(2)特に、江戸時代、士農工商のうち士の身分のもの。幕府では御目見得以上、すなわち旗本を、諸藩では中小姓以上の上級武士をさした。
(3)相当な人物。気骨のある人物。
「上役に盾突くとはなかなかの―だね」
との事である。
まぁ想定通りの内容である。
サムライという言葉が利用されていた時代は、それぞれの人が今風で言う専門職であったと考えられる。
・商いをする人は商いのプロ
・農業を営む人は農業のプロ
といった具体の時代だったのだろうと予測する。
当時は、生まれた瞬間に自分の職業がおよそ決まっていた。
家業を継ぐ時代であった為だ。
しかし、今は家業を継ぐ人は減少し、自分のやりたい事、より儲かる仕事、新しい事など目標に設定し、それぞれの人生を創造し生きている。
サムライという言葉が多く利用されていた時代よりも、かなり自由な社会だ。猛烈に自由だと思う。
しかし、人間とは貪欲なモノで一つの欲望を満足させると、次なる欲望を見つけ、それを満たす為に行動し始める。よって不自由さを感じたりもするのだ。
はっきり言って、現代は、我侭極まり無い人間の集合だと思う。
生まれた瞬間に、人生を決められていた「サムライ」という言葉が利用されたいた時代の人達に言わせると、「いい加減にしろ!」とどやされるかもしれない。
でも、現代の人は、そんな事はどこ吹く風で、知らぬ存ぜぬで、自分の欲求を満たす事に邁進する。
これじゃぁ、いい社会になるはずも無いと思う時がある。
ちょっと前、猛烈社員という言葉が流行していた時期は、同じ目標を見据えて人々は行動し、似たような欲求を満たす為に努力し生き抜いていた。
これは、考え方によっては、「サムライ」時代と同様の価値観の塊が日本人にあったと思える。
しかし、今は・・・・だ。問題だ。
自由であることは素晴らしい。限りなく幸せであると思う。
しかし、ちょっと前まで個人個人に自由というモノを与えられていなかった人が突然、
「あなた今日から自由ですので、自由に生きていって下さい。」
「何を目指しても、どのような方法でやってもOKです!」
って言われたのだ。
どうだろう?突然自由を与えられた人は、自由に生きる事ができるのだろうか?
個人で自由に振舞う事をもっとも苦手とする日本人が、個人で自由にやってくださいとの事です。
無理です。
そんな能力は、我々日本人のDNAには存在していません。
存在してる人がいても一部の人だけです。
諦めてください。
自由を放棄し、決められたルールを再度構築し、その枠の中でそれなりに小さな幸せをつかみながら生きていってください。
正直、私の本音はそんなところにあります。
だって、現実、公務員になりたい人が増加しているじゃぁないですか!
ちょっと前までは、「公務員なんて・・・」って言っていたのに。
悲しいけど、事実として把握しなければならない事なのです。
この事実を完璧に理解してこそ、自由というモノの価値感を実感し、自由への行動をとる事が出来るようになるのではないでしょうか?
中途半端に「やった~自由だ~」って言っている人には、勘違いだらけの人間です。(*注意しましょう!)
今、世間を騒がしている、ホリエモンや三木谷はきっと本当の自由を満喫している人かもしれないと思う。
彼らの行動に、いちゃもんを付けている人は、DNAに自由が存在していない人だと思う。
このブログで良く言及しているが、こんな所にも「時代の変化」が現れている。
日本人のDNAにないところで時代が変わっているのだ。
まさに、グローバル化の影響の現れである。
「国境が無くなる日は近い!」かも・・・・・。
ボブディランが言っていた「時代は変わる」と・・・。
時代の変化とは作為的なモノではなく、欲求に基づくのだ。
よって、欲求に反する行動は人間にとってストレスを生じさせる。ストレスとは行き場を失ったエネルギーでもある。
言い換えると、強引ではあるが、欲求とは社会を改革させるほどのエネルギーとなる。
それが、時代の変化となっていくのだ。
私達は今、ストレスを感じて生きているかもしれない。
しかし、そのストレスをエネルギーと置き換える事が出来るか?が試されている時期でもある。
とても大切なことです。日々を生きていく為に、絶対に忘れてはならない事なのです。
あなたが、ストレスを感じていればその分、欲求が強いという事です。
今の、あなたを満たす欲求とは何ですか?
そして、その欲求を満たす為の、行動は出来ていますか?]]>
より一層暮らしやすく
http://timesgone.exblog.jp/2494695/
2005-11-05T12:43:50+09:00
2005-11-05T12:44:02+09:00
2005-11-05T12:42:43+09:00
times_gone
生きている環境
最近、曜日感覚を失いつつ、日にち感覚もあまり無い。。。。。。
「少し寒くなったなぁ」とか「今日は暖かいなぁ」を基準に時期を感じている日々が続いている。
これが良いのか悪いのかは置いといて、今日は季節の話である。
最近は昔に比べ、夏が暑く感じたり、冬が暖かかったり、寒すぎたりで、季節の暖寒に一貫性が無くなっている。
暑い夏は、冷房の利用頻度が高くなるので、室外機からの温風や、常に渋滞している自動車の排気ガスやエンジン熱でより一層暑くなる。
寒い冬は、これらが影響し、暖かい冬になったりする年もあるが、寒くなる時期が1月、2月と昔に比べ遅くなっているように感じる。
12月に入れば、雪が降り、寒さに身を寄せ人々は街を闊歩しているはずだったのが、12月でもコートを手に持ち街を行く人を多く見かける。
温暖化問題が世界中で叫ばれているが、「より一層暮らしやすく」を求めてきた人間への地球の反発となっているのだろう。のど飴をなめならがらタバコを吸っているのと同じだ。
空調機や自動車が氾濫する前の暮らしは、夏は扇風機とうちわ。冬はコタツとストーブ。
今やそれは風物と化しているのではないだろうか?
当時はそれで、十分生きてこれた。「より一層暮らしやすく」を求めてきた我々はこれらでは駄目になった。
全然、駄目でなく、それなりに生きて来れたにも関わらず、現在は駄目のようだ。
私も、ちょっと自身が無い。
しかし、昔はどこでも快適を味わう事が出来なかったので、コタツや扇風機のある所に人が集まり、そこでいろいろ会話が発生し、コミュニケーションが形成された。
今は、どこでも不自由をしないでの、自分勝手だ。よって、コミュニケーションの発生頻度が低下している。
「より一層暮らしやすく」した為に、暮らしやすくなったが、人々が個々化し、マイナス効果も現れている。「より一層暮らしやすく」を確立することも必要だが、マイナス面も見据え、対応策を考えた上で「より一層暮らしやすく」を求めていって欲しい。]]>
日本州制度化計画
http://timesgone.exblog.jp/2482173/
2005-11-04T01:36:31+09:00
2005-11-04T01:38:42+09:00
2005-11-04T01:35:23+09:00
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生きている環境
70年代と言えば、私がこの世に誕生した年代でもある。(1970年誕生です。)
他は、(他という表現もなんですが・・・・・。)
・日本万国博覧会(大阪万博)が開催
・よど号ハイジャック事件
・三島由紀夫が自殺
・環境庁が発足
・あさま山荘事件
・オイルショック
・ウォーターゲート事件
・ ロッキード事件
といった出来事があった時代である。
しかし、私の気になっている70年代といっても、
・ローリングストーンズ
・スティービーワンダー
が気になっているだけなのですが・・・。
これらのレコードの音質がとても、心地が良いのです。
なぜなんだろうと?考えたりもするのですが、とにかく心地が良い。
空気感というか、ベースの音質というか、フレーズというか、なんちゅ~かとても心地が良い。
私は、実際にこの時代を体感している年代ではないのですが、
懐かしさを感じたりするのです。
我々は、常に進化を目指し、新しいモノを創造し2005年を迎え、新たな時代へと進んでいます。
そして、今、とても便利な時代となり、今後はどうなるのか?これ以上、何事も便利となるとどんな生活が形成されるのだろか?と実際思います。
ちょっと振り返ると、70年代と今では情報の価値観がかなり異なっています。
昔は、情報が様々なエリアの細部にまで届くには時間を要していましたし、エリア単位でも文化や、考え方が確立されており、今のような「どこもいっしょ」状態では無い社会でした。
よって、新鮮な情報が存在するエリアへの憧れも大きく、夢を見て上京した人も多いのではないでしょうか?
その結果、首都圏には人があふれ、夢を実現できなかった一度諦めた人が多く存在しています。その人達はいわゆる「都落ち」出来ない状況であったり、なんとなく首都圏で暮らしていたり、様々な条件により、今を首都圏で過ごしているのかもしれません。
しかし、この状況は決して良いとは思っていない人が多いのではないでしょうか?
休日は人だらけで、人並みにもまれる事で平日より疲労やストレスが溜まったり、何をするにも競争相手が多く、競争に疲れたり・・・です。
で、考えたのですが、アメリカの様な州制度に日本もするのはどうかと。
日本を北海道、東北、北関東、南関東、中部、上信越、関西、中国、四国、九州と10の州に分け、各々の州で半独立採算制にしてしまうのです。
行政が首都圏に集合している事で、日本の人口の偏りやストレスの発生、住み難さやなどのマイナス要素が発生しているとするならばの仮定です。いかがでしょうか?
我ながら、結構いいのではないかと思います。
州制度にする事により、各州に行政の業務が発生し、その業務を処理する会社が各州に出来る事で、人口の偏りを解決させるのです。
又、州制度のルールを作る事で、現在、国が行っている特区のようなエリア独特の文化が出来ます。音楽の話をしていたのに、国の州制度の話となってしまいましたが、結構良い案だと思うです。
過疎化問題、エリアの活性化、人口集中の防止によりエリアの税収も見込めますし、州が世界に発信する産業も出来るかもしれません。よって、今この国が抱えている問題の多くを解決する事が出来るかもしれません。
どうでしょう?
この日本州制度化計画のアイデアをこの記事を読んでいる人も考えてみませんか?
私一人では、どうもアイディアが乏しく・・・想像力が活性化してこないのです。
よって、コメントにてGoodアイディアを募集します!何でもOKです。何でもありです。
日本を州制度にしたら「こんな風になるかも・・・?」的発想でOKです。
私も考えて自分自身でコメントに投稿することにします。
きっと、このアイディアが確立したら、不具合の多いこの国を、よりストレスの無い、暮らし良い場所に改革出来るような気がしているのです。]]>
感じる為、笑う為、時には泣く為に
http://timesgone.exblog.jp/2475355/
2005-11-03T14:42:39+09:00
2005-11-04T12:05:15+09:00
2005-11-03T14:40:32+09:00
times_gone
生きている環境
その病院は都内にある大学病院で、病棟は1000床ある。よって様々な患者がその病棟で病気と闘っている。
奇しくも、私もその一人であったのだが・・・・。
私の病室は4人部屋。
隣のベットは肝臓癌で今回で入院が16回目だと言っていた記憶がある。
右向かいの方は大腸癌が肝臓に転移しているらしい。
私はタバコを嗜むのだが、喫煙部屋での会話もすごい。
患者A:「癌細胞があるんだよ」
患者B:「大変だねぇ~。何癌?」
患者A:「癌細胞が体内にあるのは認められているけど、どこに身体のどこが癌細胞に犯されているかが不明なんだよ~(笑)」
とてつもなくすごい会話であると同時に、病棟にいる人の多くが病魔と闘っている事が理解できるであろうか?
朝6時に起床し、8時に朝食。看護士が病棟に回ってきて検温。12時に昼食。19時に夕食。22時に消灯。毎度出される食事は健康管理が施され、病状によって内容が異なる。患者は食事をし、点滴を受け、睡眠をとる。少なからず、入院している人達は完治を目指し闘病生活を送っているが、完治する人もいれば、永遠のお供となる病気となる場合もある。命を落とす事だってある。
以前もこのブログで言及したが、「自殺」は絶対にいけない事である。
このように病気と闘い、普通の生活を手に入れる事を夢見て、単調な毎日を過ごしている人の気持ちを「自殺志願者」はどのように感じるのだろうか?
そりゃ~、個人個人いろいろ問題は持っている。人間関係や学校、会社での出来事。毎日が大変だと思う。
しかし、生きる事の意味を本当に考えた事があるのだろうか?と「自殺志願者」に聞きたい。
生きているのは当たり前ではない、生きている事には理由があるのだ。
あなたが生きている事とはとても重要な事なのだ!そこを、わきまえていただきたい。
ニートやフリーターと社会問題視するこの社会も間違っている。
そもそも、人それぞれには、それぞれの問題があるのだ。それをひと括りにそのようなレッテルを貼り問題視することは、彼らの問題解決、いや我々の問題解決を単にごまかしているだけにしかすぎない。
目の色、肌の色、育ってきた環境、考え方など人それぞれあるのだ。
乱文となりがちであるが、理解していただけるだろうか?
あなたは、世界で一人しかいない「あなた」なのです。
どんな問題があろうと、どんな環境であろうと、命を授かったった一人のあなたなのです。
必要とされ、この世に存在しているのです。その辺をわきまえて頂きたい。
しかし、もし、あなたが何もしなければ、あなたは何の成長もしない生まれたままのあなたでしかありません。自分から話かけ、笑い、泣き、他人によって成長し、たった一人のあなたへと研ぎ澄まされていくのです。言うなれば、この何かの原石なのです。その原石をどうするかも、あなた次第なのです。
感じる為、笑う為、時には泣く為にあなたは生きているのです。
自殺志願者の方、あなたが自殺をすることにより、どうなるのですか?
「私達自殺志願者は・・・・」ではなく「私」を大切にしてください。
くだらないレッテルを貼られているのなら、それを取り除きましょう!
近くにいる誰かを、とっ捕まえて、会話をし、相談して解決していくしかないのです。
自分自身で解決できない事の方が、この世には多い。
病気だったそうだし。
悩みだった、恋愛だって、就職だって、入学だって、成長だって、喜びだって、悲しみだって、不安や孤独感でさえも、一人では達成できない出来事なのです。
病棟で生き抜く為に闘っている人のように、明日を見て、くだらないレッテルはゴミ箱に放り投げてください。
病棟で生き抜くために、日々単調な生活を強いられている人達の心意気を想像してみて下さい。
そして、きっと素晴らしい事が絶対である明日に向かい、「私」をもっと大事に捕らえてください。]]>
仇討ち
http://timesgone.exblog.jp/2464599/
2005-11-02T11:45:41+09:00
2005-11-06T22:12:56+09:00
2005-11-02T11:44:36+09:00
times_gone
過去からの提言
最近ハヤリの時代小説の映画化。藤沢周平さんが、ブームになっているが、彼の作品のみならず「仇討ち」を題材にした時代小説は意外に多い。
たとえば、藩内の政争に巻き込まれた家長が、真相を探る途中に何者かに「無実の罪を着せられて殺害」され、その仇討ちを果たすために、その嫡男が仇討ちを藩に申請する。認められれば、まあ、言ってみれば許可証が与えられ、晴れて仇討ちの旅に出る。諸国を何年もかけてめぐり、志半ばで亡くなる人もあれば、本懐を遂げ、国許に戻り、家督を継ぎ、場合によっては、出世もする。
この制度は何のために設けられたのか? 私は研究家でも何でもないので詳しいところは分かりかねるが、「恨みを晴らす」ということよりも「名誉回復」の意味合いが強いのではないかと思う。お家の名誉である。「そんなことも守れずに、国(藩)を守れるか!」ということだろう。言ってみれば、権力を維持するために重要な制度なのだ。
幸か不幸か、現在、「仇討ち」制度はない。
すべては、法廷で裁かれ、死刑でも、選任の執行人がいるわけだ。
話が少し反れるが、この死刑についても、長年、いろいろな議論がなされてきた。反対論・肯定論と。まあ、きわどい問題だし、簡単なことではないので、直接的な言及は避けたいが、でも、昨今のように「凶悪犯罪」が増えると、知らず知らずに、お茶の間で、それに近い議論をしていることがあるだろう。
この件に関して、
個人レベルで、云々言うのは自由だと思うが、マスメディア、特にテレビは慎重に発言してほしい、と思うことがよくある。もっと譲歩すると、そういう考え方の教育はタブー視せずに、ちゃんと教育の現場では議論してほしい、と思う。なぜなら、感情論で済ましてほしくないと思うからだ。
よく、テレビのコメンテーターが、凶悪犯罪に対するコメントとして、「とても人間のやることとは思えませんねえ」という、まあ、使い古されたコメントをするが、「ちょっと待った」と思う。問題視したいのは、その発言を、ちゃんと教育を受けていない、もしくは、法律について議論したことのない子供や、その親が見て、どう解釈するのかをかんがえてほしいし、あなたは考えていないだろう! ということだ。
日本人に限らず、人間が有史以来、いつの時代も怠らなかったことは何だろうか?
それは「殺人」と「セックス」であろう。
いつも時代の戦争がやまないし、反面、人を愛し、セックスをすることで、人類は続いているわけだ。
「人間は殺人をする生き物です」
これがまぎれもない真実。
先の、「人間のすることじゃない」とは、どういう根拠で、そんなことがいえるのだろうか? もちろん、被害者の遺族にしてみれば、「殺してやりたい」と思うのが当然で、そう思うのが人間である。しかし、だからこそ、知恵を出して、どうしたら、それを防げるのか?を考えるのこともまた、人間の役割でもあるだろう。
しかし、これは、永遠テーマに近いし、なかなか難しい問題である。そして、この問題は時間を費やして議論しても尽きることはない問題のだ。人間である限り。
永遠のテーマなので、私も、折に触れて、考えてみるのだが、そんなときにいつも思い浮かぶのは「仇討ち」制度=「怨恨感情ではなく名誉の回復」のことだ。
私には、どうしても、そこに何かヒントが隠されているような気がしてならないのである。
]]>
つくられた農耕民族
http://timesgone.exblog.jp/2445375/
2005-10-31T11:23:33+09:00
2005-11-06T22:13:15+09:00
2005-10-31T11:22:30+09:00
times_gone
過去からの提言
ここでは、そもそも文化人類学的な見地からいって、ニッポンという風土は、農耕に適しているのか、狩猟に適しているのか、そこから話したい。
言うまでもないが日本は島国だ。日本人の感覚レベルでは、北海道だって、大陸っぽいが、そういう問題ではなく、大陸ではない。
また、小学生のときに地理の授業で教わったが、「山がちな地形で、川も急流が多い」というぐらい、言ってみれば、「山」と「海」しかない、もともとそういう自然環境を生活のバックボーンとしてもっている国、それがまぎれもないニッポンということになる。
何がいいたいかというと、素直に行けば、日本人は「狩猟民族」になったほうが幸せだし、そういうDNAを少なからず持っている。しかし、先に述べたとおり、「日本人=農耕民族」ということが一般的に言われている。自然発生的に日本人が営んできたのであれば、「日本人=狩猟民族」と、「一般的に言われる」こともあったかもしれない。なぜ、そうならなかったか?
理由の一つは、そう「米作」である。
縄文時代から弥生時代に移行していくなかで、ある種、必然として「米作」があったわけだが、そういった「時代変化レベル」の話なら、ここまで「米作」が伸びるわけがない。米が貨幣価値を持ち、権力の象徴となり、もっと現代に近づくと「政治権力」と結びつく、そういったことがあって、日本人の狂信的とまで言える「米文化」が形成されていったのは疑う余地もない。
こういった歴史の流れを経て、現代日本人の意識はどうなったのだろうか。
たとえば「稲」「田んぼ」といったら、まず日本人はどういうイメージを持つだろうか?
いろいろあるだろうが、「悪いイメージ」を持つ人は少ないはずだ。
「自然」「牧歌的」・・・といった、言ってみれば、非常にエコな、ナチュラルなイメージをもつはずである。いうなれば「反公害的なイメージ」である。
でもどうだろうか? 米作が起こって、江戸時代、昭和と、歴史を見る限り、米作がもたらした日本人への影響は、残念ながら、あまりいいものばかりともいえないだろう。
分かりやすい例では、森林伐採の問題がある。農業用水確保のための大型ダム建設・砂防ダム建設だ。また、ダムだけではない、農業道路建設の利権問題など、言及したくもないぐらい悪辣なものなのである。そのほか減反問題とか、いろいろある。きりがない。「米作の行き過ぎると公害」であるということなのだ。
私は、ここで「いまこそ、米食をやめて、雑穀をもっと食べよう!」などと展開したいわけではない。
現に、そういう私は、米がなければ生きていけない身体になっているし、日本の腸の構造も、どうやら米食を怠ると具合がよくないらしい。そして、何より、「米」を中心とした日本の食文化はすばらしいものであり、日本人が誇りにして良いことである。できれば「ご飯を食べよう!」と、私はむしろ叫びたいぐらいに「米食文化」を愛してもいるのだ。
ただ、米作によって「日本人が亡くしてきたもの」は計り知れないだろう。
「ニッポン人は、狩猟民族にもなりえた」という視点があるだけで、日本人がなくしてきたものの多くが、見えてくるような気がする。
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カドのミセヤ
http://timesgone.exblog.jp/2440686/
2005-10-30T21:49:11+09:00
2005-11-06T22:13:58+09:00
2005-10-30T21:48:51+09:00
times_gone
生きている環境
「コンビニエンス・ストア」という名称も、考えてみれば、風情もなにも無い。それは、この言葉に付帯するイメージにも、そもそも、その概念自体にも、機能的な意味しか持ち合わせていないからだろう。
週末、スーパーマーケットに食材を買いにいくのだが、なぜか、豆腐を手に取って思った。
「この容器がなければ、どれだけの不燃物が減るだろうか?」
まあ、地域によっては「プラスティックごみ」として分別されるが、まあ、いずれにしても「ごみ」である。放っておいても、土には還らないし、安易に燃やせば有毒ガスが出る。
豆腐だけではない、隣の納豆も、かまぼこのパッケージも、ヤキゾバも、お漬け物も...。
豆腐で思い出したが、幼いころ、近所にある豆腐屋にお使いにいくのが、私の役目だった。実家から100メートルぐらいしか離れていないので、5、6歳の子供でも、まあ、問題なく使いになる。祖母は、100円玉とボウルを渡し、「落とさないで、しっかり持ってね」と言った。
今のスーパーマーケットで、こういう仕組みがあったら、少しはごみ問題も解決されるだろう、と妻に言ったら、「バカじゃない、衛生的に大問題じゃない、無理に決まってんでしょ」と一蹴された。そうだ、その通り。解決しなければならないのは、ごみの問題だけではない。製造工程、安全管理の問題、そしてそのコスト。流通の問題、そしてそのコスト。何より、この巨大な消費社会においては、安定供給が重大な課題。
そんなことは、分かっているが、なぜか解せない。納得いかない。
私は、あるパンクミュージシャンの歌を口ずさんだ。「コンビニエ〜ンス、コンビニエ〜ンス♪」
話が飛躍して申し訳ないが、肥満は、あるいはダイエットによるリバウンドの問題は、DNAの記憶と「モノあまり社会」が生んだ歪みだ、と私は思っている。
DNAは飢餓に対する記憶をいつまでも持っていて、食物が供給されないと、それを待ち構える。補給され始めると蓄えようとする。よって、リバウンドという現象が生きる訳だ。
考えてみれば、飽食の時代に食べ過ぎるのも仕方の無いことで、お金を費やして消費しておきながら、更にお金をかけ、死ぬ思いで、涙を流しながらダイエットに励む。やっぱり、「コンビニエ〜ンス、コンビニエ〜ンス♪」とでも歌って誤摩化すしか無い。
カドの豆腐屋は、もうない。
私の実家近くだけの話ではない。商店街には、豆腐屋なんてない。
正直、「カドのミセヤ」よりもスーパーマーケットをとる私なので、偉そうなことを言うつもりはないが
ふと、そこで働いていた人たちは何処に行ったんだろう? と思ったりすることがある。
おそらく十中八九、普通のサラリーマンをして、コンビニエンスな消費社会の幸せ(?)を享受していることであろう。
もちろん、私のように「コンビニエ〜ンス、コンビニエ〜ンス♪」なんて歌わないだろうが。
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サンダンス
http://timesgone.exblog.jp/2432021/
2005-10-29T21:35:13+09:00
2005-11-06T22:15:01+09:00
2005-10-29T21:33:52+09:00
times_gone
人間の欲求
「毎朝、欠かさず太陽を見るんです。そうすると毎日活力をもって暮らせる」というのだ。
こういったことを言われると、すぐに新興宗教を思い浮かべる。悪い癖だ。
この7年、日本人の自殺者数は、年間3万人を超えている。数だけだとピンと来ないが、対人口比率でいくと、あの北欧各国よりも多い。ちなみに、ノルウェーの倍である。世界ランキング10位ぐらいだ。
毎朝電車が遅れるわけである。
「なんで、こんなに死にたい人が多いのか?」そう思ったとき、あの社長の言葉を、ふっ、と頭をよぎった。
そうか、日本人は太陽を見なくなったのではないだろうか?
不景気でいいことなど一つもない、と俯き加減。会社に行けば、パソコン画面をにらみ、電車で携帯、歩いて携帯、その他携帯...。いつ太陽を見るのだろう。
先に出た、北欧各国は、自殺が多いことがずいぶん前からいわれているが、「うつ病の原因の3分の1は、冬の暗さにある」という研究結果もあるという。
そうか、太陽を見ないと、人間は鬱になり、ほっとくと死にたくなる。逆をいうと、少しぐらい落ち込んでいたとしても、太陽をみることで鬱は解消されるかもしれない。
あの社長が言っていたことも一理ある、そのように私は仮説を出した。
10年以上前、私は、あるアメリカ先住民に救われたことがある。
命ではない。精神的に救われたのだ
マイアミのさらに南、キーウエストに向かう途中だった。
大切な日記帳をアクシデントで無くした。ただの日記ではない。旅での出来事を一つ一つ、時にはスクラップを貼り、コーヒーのしみや、汗...そういったすべてが詰まった大切な記録だった。
打ちひしがれて、道路わきのハイキング用テーブルに座って、出たばかりの月を見ていた。12月末とはいえ、亜熱帯である。蒸し暑い。でも私は、幽霊のように、そこにいた。
そこへ、その男は現れた。
「一緒にここに寝ていいか?」と聞く。拒否する必要も権利もない。
「もちろんだ」と答えた。
「何をしてる?」と男が聞く。正直に話す必要もなかったが、私は一部始終を話した。
その男は、マイアミあたりに住むアメリカ先住民で、キーウエストに住む友人の誕生日パーティに行く途中ということだった。男がきた付近からキーウエストまで何マイルあるのか? 相当あるはずである。そんな距離を歩いて?
私が話し終わると、男は笑った。屈託のない、高音で、よく通る声だった。
「わるいわるい、馬鹿にしてるんじゃない」そう謝ってから、男は真新しいタバコを1箱、そして使っていないマッチを私に渡す。「あげるよ」と。そして、男はある話をしてくれた。
「現代人は、おまえは何を欲する? と聞くと、モノを答える。でもそんなことは、どうだっていいことで、さして重要なことではない」
「俺たち(アメリカ先住民)は、日が昇れ活動をはじめ、そして、暮れれば活動を止め、眠りにつく」
「それが、サンダンス、というものなんだ」
そして、また、高く笑うと、「寝る前にタバコを一本くれ」という。「これなあなたのタバコだから返すよ」といっても、決して受け取らなかった。
次の日、私が暑さに目がさめたときには、男の姿はなかった。
サンダンス、のちに少し調べてみたのだが、これは確かにインディアン語らしい。
あの「サンダンス・フィルム・フェスティバル」のサンダンスもここからきている。
「太陽踊りという感謝祭」ということだが、詳しいことは調べていない。
太陽に感謝する、それが、インディアンたちの生きる源泉なのだろう。
「こまかいことに縛られるな!」
「太陽と共に生きろ!」
私には、あのときの男の言葉は、そう届いたのだ。
だいぶ元気を取り戻した私は、次の日、キーウエストで、ある作家が住んだ家を訪れた。
思った以上に普通のたたずまいだったので、すこし寂しくなった。
作家の名は、アーネスト・ヘミングウェイ。
作家活動における中期時代に、キーウエストに住み、キューバにて晩年を過ごし、好きなカジキ釣りに明け暮れた。そして、ノーベル文学賞受賞の6年後、1961年7月2日、祖国アメリカはアイダホ州ケチャムにて猟銃自殺した。
彼は、何年も不眠症に悩まされていたらしい。
夜が長い。
太陽を見なくなると人間は自殺をする。
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スターの存在
http://timesgone.exblog.jp/2415835/
2005-10-28T00:10:00+09:00
2005-10-28T00:34:55+09:00
2005-10-27T23:07:29+09:00
times_gone
生きている環境
これらは、いったいどのようなが理由となっているのだろうか?
現在、野球界にスター選手がいないのは事実である。
今や、彼らがスターである。
それは、球界だけではなく、どこの業界にしても同じだろう。
昔は、絶対的なスターがいた、
野球界では、長島、王など、野球に疎い自分でもこれくらいは知っている。
子供の頃であったが、知っている。
又、しょぼい例しか記載できない自分も素敵である。
TVの中にはいつもスターが映し出されていた。
いつもわくわくしながらTVを見ていた。
ピンクレディーやドリフターズ、その後、漫才ブームによりB&B、ツービート、新助竜介、ザ・ぼんちなどどきどきしながらTVを見ていた。
海外では時代はリアルタイムではないが、プレスリー、ビートルズやローリングストーンズなどが時代を創り、庶民の夢となっていた。
現在、世界中誰もが知っているスターは実在していない。
これは、問題だと思う。
スターが毎日の生活を充実させてくれる。
スターの存在は、犯罪や自殺、躁鬱病などメンタル的な対処を施してくれる。
又、私は、夢を彼らから教わった。
絶対的な、ゆるぎない地位を獲得しているスターに。
そのスターがいない現在の子供達は、いったいどんな夢を見ているのだろうか?
現実的で、人の不幸をあざ笑うかのような毎日のニュースやドキュメンタリー。
これらのコンテンツから愛を感じたことは無い。
愛の存在しないところには夢は介在しない。
どんな子供となるのか?
現実的で、馬鹿な夢も見ない子供が大人へと成長していくのだろうか?
もし、そうなれば、今後、文明や文化は成長しないのではないかと思う。
絵空事のような手塚治虫の漫画が、今や現実のモノとなろうとしている。
これは、手塚治虫の作品に夢を見た子供達が、大人になった今、実現する事に夢を見て行動している事の証である。
スターは育てられて、出来るものではなく、時代そのものを打ちしだしたモノだと思う。
スターがいた時代は、今より不自由な時代であった。
では、今の便利を全て、拒否し不自由へと進めばスターは生まれるのか?
それは、分からないし、誰も出来ないだろう。
現在の第三国にはスターがいるのか?それは不明であるが、絶対政府というモノがあるエリアもある。これはある意味、スターというポジションだけを考えると置き換えられることも出来る。
しかし、独裁主義で、決して平和は訪れない毎日を貧しく、飢えに耐えながら暮らす事となる。
民主化された我々には到底、耐え切れない毎日の連続であると思う。
私は思う。
文化や文明の進化は重要であると。しかし、スターの存在も重要だと。
どちらかしか選べないのかもしれない。
人間とは不自由な生き物である。]]>
偉人と常人
http://timesgone.exblog.jp/2408863/
2005-10-27T03:13:49+09:00
2005-10-27T23:13:09+09:00
2005-10-27T03:13:42+09:00
times_gone
目的を達成する事
彼は、詩人であり、作家である。
ドイツ生まれのLA育ちで、彼の作品が売れ出したのは若き頃ではなく、確か30才を過ぎてからであったと思う。
ショッキングだった。
彼から、生まれる作品が生々しいすぎるのだ。
どんな思いも、まっすぐに表現する。そして、決して自分に嘘はつかない。
郵便局員を地獄の仕事だと言いながら、10年強作家との二束の草鞋をはき、生活を送る。
夜間の郵便局の仕事に対しては、月々の生活費と退職金がもらえる事と、夜眠ることが出来ない事から続けていたようだ。
作品が早くに売れていればこのような生活を強いる事はなかったであろう。
彼の作品は運便局員時代は泣かず飛ばずであった。
しかし、ブコウスキーは決して売れる事を目的とし文学活動をしていたわけではなく、あくまでも自分自身の為だと言及している。
それが真実かどうかはわからないが、カッコいいと思った。
そして、最後まで、自分自身の為であると言い切り、白血病を患い1994年に73歳で死んでいった。
創作活動を行うにあたり、始めた頃の魂や想いを継続させることは難しい。
それは、活動を続ける事により、見聞も広がるであろうし、歳もとる。
作品が売れることにより、ハングリー精神も低下するであろう。
想いを維持する事。
なかなか常人には出来る事ではない。
しかし、ブコウスキーはそれを行った偉才であると思う。
想いを維持したまま継続する事。
愛とか夢とか、希望とか未来へのモノは全て同様の意識で考える事が出来る。
あなたの家庭は、結婚した時の想いと同じレベルで継続しているでしょうか?
あなたの成し得なかった夢は、どの辺りから維持できなくなったのでしょうか?
あなたの未来は?希望は?どこまで同じレベルで維持できるのですか?
私は、全く自信が無い。きでっこ無いとも少し思っている。
だから、私はそれを保つ為の方法を少し変更した。
それは、10年先や5年先の夢を見る、希望を抱くのではなく、それらを達成させる為に、目の前に目的を設置する。
そして、一つの目的がクリアできれば、次の目的を設定する。その目的の設定基準は10年後、5年後を見据えて設定するのだ。
誰しも、夢や希望を抱くのは全然かまわない。
しかし、それを達成するかしないかには、大きな差がある。達成できた人の方が魅力的でもある事もあるし、生きているのなら是非、達成してみたいと思う。
私は、ブコウスキーのような偉人では無い。
よって、レベルを維持したままの簡単に生きていく能力が無い。
だから、このような方法をとる。
あなたは、どうですか?
既に達成した人ですか?それとも、達成を目指している最中ですか?それとも、達成を既に諦めている人ですか?
夢や希望を持ったその瞬間から、それを達成するか否かはその人本人の責任となっているのです。常人はどのように行動するかでそれが決まります。]]>
病の巣窟となりつつある近代
http://timesgone.exblog.jp/2402114/
2005-10-26T12:09:19+09:00
2005-10-27T04:42:19+09:00
2005-10-26T12:07:07+09:00
times_gone
生きている環境
代表的な病気として、ガン、高血圧、糖尿病、アトピー性皮膚炎、その他慢性病や成人病があります。花粉症も現代病として扱われたりもします。
では、その現代病の原因は何でしょう?
農薬、食品添加物、水道水、化学薬品、食生活の西欧化・・・様々な物が原因と言われていますが、原因のはっきりしない病気もあります。
また、現代病と言われている病気の多くは、根本的な治療方法が見つかっておらず、完治が難しいようです。
との事です。
このような現代病といわれる病気は、経済成長とともに成長していったと見られます。
私の好きなアルコールにおいても、アルコール依存症という病気があり、これもここ数十年で増加した病気です。
アメリカでは60年代頃から増加し始め、日本では70年代頃からアルコール依存症が増加しはじめたと記憶しています。
マリリンモンローも田中角栄もアルコール依存症であったと見解する人も存在しています。
アルこール依存は、ストレスから発生する事が多く、対人間、対仕事、対家庭といった事が原因となりアルコール依存となるようです。
まさに現代病として考える事が出来る重大な病気と思われます。
アルコール依存となると、脳神経、内臓細胞などすべての器官に悪影響を及ぼします。
とても恐ろしい病気で、一度アルコール依存になるとこれを脱するまで、想像以上の時間が要するようです。
私が、読んだ本「アル中地獄」の作者である邦山さんは36回の入退院を繰り返し、アルコール依存から脱しました。しかし、邦山さんは、なんらかのきっかけにより再びアルコール依存に陥るかもしれないという自分との闘いが日々続いているようです。
一度アルコール依存を脱しても、再びアルコール依存に陥る危険因子を身体が持っている恐怖と戦っているのです。
アルコール依存になると、自分の身体ではなく、家族や友人、知人との関係も、今までのような関係では整わなくなり、全てを失ってしまうようです。
このような事から想像すると、アルコール依存は他の現代病とは異なり、人生をリセットする可能性を持っている、本当に恐ろしい病気である事が分かります。
ではアルコール依存症とはどのような状態であるのか?
邦山さんの本から抜粋してみると、
「毎日の晩酌を8~10年くらい続けている人で、酒を飲まないとイライラして短気を起こし、1杯飲むとケロリと愉快になる人」はアルコール依存予備軍と考えて良いらしい。
経済成長とともに、我々は様々な都合のいいモノを手に入れる事が出来ました。
しかし、その反面、職にあふれる人の増加や、このような現代病に犯される人も増加し、大きな犠牲も出ています。
且つ、近代では自殺者の増加、躁鬱病といった精神からくる病気も多くなっています。
では、今後我々は何に依存し、生きていくがいいのでしょうか?
人間は依存なしでは、生きてくに困難な生物です。
便利になりすぎて、多くの大切なモノを忘れてしまっています。このままの状態では、病気になる人ももっと増加するかもしれません。より不自由にな人の増加が現れるかもしれません。
どうすればいいのでしょうか?何を、どうすればいいのでしょうか?
誰にも分からない答えがあるのでしょうか?
私は、答えを探すのではなく、大切なモノをもっと親身になり探しながら生きていく事が、もっとも重要だと思います。そうすることによって自分の周りに大切なモノが見つかるかもしれないと思うからです。
大切なことは、便利なこの近代社会で自分自身を信じる意識をもって生きていく事なのではないでしょうか?近代社会に、会社、学校に流されているだけでは失うばかりの生活が続き、自分自身も失い、現代病を患ってしまいます。このような事態に陥らない為にも、自分自身の意識をしっかり持って邦山さんのように、自分の目標と格闘しながら生きていく事が重要なのです。]]>
不自由さかげん
http://timesgone.exblog.jp/2395119/
2005-10-25T15:16:54+09:00
2005-10-26T14:12:03+09:00
2005-10-25T15:14:44+09:00
times_gone
生きている環境
TVで夕方、フラウが作った、サンドイッチをほうばっているアムロに憧れ、ガンダムを見る時は、いつも近所のパン屋「LONDON」でハムサンドを購入し、食べながらガンダムを見ていた。
ガンダムを見ながら、ハムサンドを食べる自分がカッコいいと思っていた。
TVの中は、非現実的な存在で、現実と交差する事はなかったし、TVを実現させようとも思えなかった。
ドラえもんの未来の世界。
「未来とはあんな感じか~」と未来と現実を区別し見ていたし、未来を遠く感じてもいた。
なぜなら、私の暮らしていた環境では、ドラえもんのような未来の欠片なんか見る事が出来ない所だったからだ。
アイドルといわれていた人たちもそうだ。
あれは、TVの中での話で、アイドルと会う事なんかきっと無いと、思っていた。
こう考え、今の若者と比較すると、かなり夢の無い人間だったのかもしれない。
しかし、今のTVはかなり「お茶の間寄り」でTVの中の世界は素人でも実現させる事が出来るように見せ作られている。
誰でもアイドルになれるように、最近の売れっ子アイドルはクラスメイトの中にいそうな感じの子だったり。
PCでCGなんかを作れる人にとっては、TVの中のヴァーチャルなんか簡単に作れるだろうし、それ以上ものモノをつくることもできるだろう。
そう考えていくと、なんか境界線というモノが無くなっているような気がする。
バーチャルな世界と、現実的な世界が同化しつつあるのではないだろうか?
湾岸戦争で見たTVの映像は、ゲームセンターで戦争ゲームを思い出させ、戦争への恐怖感の喪失。
殺人ゲームは実際に殺人を現実に及ぼす。
これらは、バーチャル世界に存在していなきゃいけない悪が、現実となったケースかもしれない。
TVの世界では、才能があろうが無かろうが、誰でもなれるような仕組みが出来上がっている。
クラスメイトにいるようなアイドルや、近所のねーちゃん的アイドルの存在などの出没。
芸能人は才能が無くては生きていけない世界であったにも関わらず、才能が無くても生きていける世界となっている。
才能ある芸能人が才能無い芸能人を馬鹿にして笑いをとったり。
歌唱力も無いのに、歌手となり、リリースした歌がヒットしたり。
所謂、芸の無い人間が舞台に立っているのが今の芸能社会である。
これらのような事を考えると、幼少のころ見る夢というのが狭められているような気がする。
あこがれ感をTVの世界で持てないので、子供はそれを目指さない。
誰だってなれるようなモノはかっこよく無いからだ。
夢では無いが、戦争や犯罪にしてもそうだ。
バーチャルと現実が交差している今の社会で、犯罪を減少させていくのは困難で事となっている。
ドラッグの氾濫にしても、誰でも簡単に手に入れる事が社会である為、氾濫する。
ゲームで簡単に人を殺せるので、ムカついたら人を殺す。
あまり、素敵な社会では無い。
夢見る社会が遠のいていく・・・・。
我々は、文明の進化により、あらゆる便利や楽しみを手に入れる事が出来た。
それは、夢を実現させてきた証でもある。
便利や楽しみを手に入れ続けると今後、社会はどうなっていくのだろうか?
夢が萎縮していくのではないだろうか?萎縮し続けた夢はその内、消滅しなくなるのではないだろうか?そうなると、誰も夢を見なくなるのではないだろうか?
誰も夢を見なくなると、この社会はどこに進んでいくのだろうか?
新たな夢が創作されるのだろうか?
昔の人が言っていた、不自由なくらいが丁度良いと。]]>
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