2005年 10月 13日
情報過多がもたらしたモノ |
私が、情報過多で、思い浮かべることは「選定能力の低下」である。
情報が適度な量で社会に流れている時には、それぞれの情報を識別することが出来たのではないだろうか?ということである。
私が子供の頃は、情報といえば、新聞、TV、ラジオ、近所のおっさんの話、近所のにいちゃんの話など、とてもコミュニティなものであったような気がする。
特にラジオからの情報には、誰もが敏感に反応していた。
ラジオで面白い話があがると、次の日の学校の教室では、その話で持ちきりだった。誰もが、新鮮な話に興奮し、心が躍動していたように気がする。それほど、ラジオからの情報には新鮮さを感じるほど、新鮮さを感じていた。
というのも、日々の情報と言えば、近所のおっさんや、ばはんん、にいちゃんや、お菓子屋のおっさんの話、じいちゃん、ばあちゃんからの話ばかりで、聞き飽き、退屈を感じ心が躍動する事が少なくなっていた。
よって、ラジオDJは、我々にとって憧れの存在であった。
その頃TVはというと、そりゃ~憧れだけど、コミュニティチャンネル以外は高嶺の花で、憧れる事も許されないような(言いすぎ?)感があり、ひとつの箱の中での物語として見られていたのではないだろうか?
今のような、クラスメイト的アイドルなんか考えられる余地も無かった。
と、いうように情報を発信するモノによって、情報の親密度が整理されており、それぞれの情報が、それぞれの役どころを踏まえて、存在していたと思う。
しかし、今の社会は、ネット、TV、あらゆるジャンルの情報誌など情報に飢えるどころか、ありあまる情報の押し付けにゲップがでそうだ。
私達はそのような社会に生きている。
そして、その情報を整理、選定していくことによって、自分に必要な情報とそれ以外とに、識別していっている。
ここで、必要な能力が求められる。
情報を識別するセンスだ。
何が自分にとって、必要な情報で、何が自分にとって不必要な情報なのかを見極めた上、自分に見合った情報を決定し、ピックアップするセンスだ。
これが、なかなか難しい。
ある調査会社の調査結果によると、最近、商品を購入する際に商品を選定する事が出来ない人が増加しているらしい。
また、自分で欲しいジャンルの商品を選定できない為、いろんな人に聞く。パブリックな情報だけでなく、自分の購買環境に近いコミュニティ的な情報に触れ、商品を選別していっているとの結果もあった。
「どこそこで、売っている商品の方が価格が安いよ~」
「4人家族で最も使い勝手の良い商品は●●ですよ~」
「△△の情報には、あなたの生活に見合った情報が掲載されていますよ~」
とか、
何でもかんでも、全てコミュニティ情報に触れてから、情報を識別していく。
つまり、口コミサイトが情報源の有力候補となっている理由もここにある。
何かよく考えると、こんなに情報が沢山あるのに、結局はコミュニティ情報に触れる事で、情報を自分の縄張りに置き換え、行動に移す・・・・・。
これって、昔のラジオが一番新鮮な情報だった時代と同じ行動をとっているような気がする。
結局、我々は「何が信頼できるのか?」という事になるのではないだろうか?
見たことも聞いたことも無い物事に対して心を開かない我々は、見たことも聞いた事もない情報が飛び交う、この情報過多の時代にどのように生きて行く事が、情報にストレスを感じず生きていく事ができるのだろうか?
情報過多の今の社会で、情報を識別する為に回帰するには、「地域=コミュニティ」という存在が最も効果があるのではないだろか?
情報が適度な量で社会に流れている時には、それぞれの情報を識別することが出来たのではないだろうか?ということである。
私が子供の頃は、情報といえば、新聞、TV、ラジオ、近所のおっさんの話、近所のにいちゃんの話など、とてもコミュニティなものであったような気がする。
特にラジオからの情報には、誰もが敏感に反応していた。
ラジオで面白い話があがると、次の日の学校の教室では、その話で持ちきりだった。誰もが、新鮮な話に興奮し、心が躍動していたように気がする。それほど、ラジオからの情報には新鮮さを感じるほど、新鮮さを感じていた。
というのも、日々の情報と言えば、近所のおっさんや、ばはんん、にいちゃんや、お菓子屋のおっさんの話、じいちゃん、ばあちゃんからの話ばかりで、聞き飽き、退屈を感じ心が躍動する事が少なくなっていた。
よって、ラジオDJは、我々にとって憧れの存在であった。
その頃TVはというと、そりゃ~憧れだけど、コミュニティチャンネル以外は高嶺の花で、憧れる事も許されないような(言いすぎ?)感があり、ひとつの箱の中での物語として見られていたのではないだろうか?
今のような、クラスメイト的アイドルなんか考えられる余地も無かった。
と、いうように情報を発信するモノによって、情報の親密度が整理されており、それぞれの情報が、それぞれの役どころを踏まえて、存在していたと思う。
しかし、今の社会は、ネット、TV、あらゆるジャンルの情報誌など情報に飢えるどころか、ありあまる情報の押し付けにゲップがでそうだ。
私達はそのような社会に生きている。
そして、その情報を整理、選定していくことによって、自分に必要な情報とそれ以外とに、識別していっている。
ここで、必要な能力が求められる。
情報を識別するセンスだ。
何が自分にとって、必要な情報で、何が自分にとって不必要な情報なのかを見極めた上、自分に見合った情報を決定し、ピックアップするセンスだ。
これが、なかなか難しい。
ある調査会社の調査結果によると、最近、商品を購入する際に商品を選定する事が出来ない人が増加しているらしい。
また、自分で欲しいジャンルの商品を選定できない為、いろんな人に聞く。パブリックな情報だけでなく、自分の購買環境に近いコミュニティ的な情報に触れ、商品を選別していっているとの結果もあった。
「どこそこで、売っている商品の方が価格が安いよ~」
「4人家族で最も使い勝手の良い商品は●●ですよ~」
「△△の情報には、あなたの生活に見合った情報が掲載されていますよ~」
とか、
何でもかんでも、全てコミュニティ情報に触れてから、情報を識別していく。
つまり、口コミサイトが情報源の有力候補となっている理由もここにある。
何かよく考えると、こんなに情報が沢山あるのに、結局はコミュニティ情報に触れる事で、情報を自分の縄張りに置き換え、行動に移す・・・・・。
これって、昔のラジオが一番新鮮な情報だった時代と同じ行動をとっているような気がする。
結局、我々は「何が信頼できるのか?」という事になるのではないだろうか?
見たことも聞いたことも無い物事に対して心を開かない我々は、見たことも聞いた事もない情報が飛び交う、この情報過多の時代にどのように生きて行く事が、情報にストレスを感じず生きていく事ができるのだろうか?
情報過多の今の社会で、情報を識別する為に回帰するには、「地域=コミュニティ」という存在が最も効果があるのではないだろか?
by times_gone
| 2005-10-13 22:09
| 生きている環境